家族の絆について

旅立つ君たちへ、親としての願い

今春から、新しい世界で生きていく若者に、「出端をくじくような事を書くな!」と、気分を害する人もおられるでしょうが、世間の荒波に立ち向かう君達にだから、親心としてどうしても聞いて欲しい事を書きたいと思います。

もし、あなたが明日、目が覚めて、あなたの両足・両手、または両目や両耳が不自由な体になっていたとするとどうでしょうか?すべからく、健康であった昨日までの体に気づくことでしょう。

もし、あなたが明日、目が覚めて、今まであなたの横にいた、いえ、いるはずの愛するわが子や親がいなくなっていたらあなたはどうするでしょうか?当たり前の存在がいなくなる事で、改めてその人の存在を知り、大切な「命」も知り、一抹の寂しさを感じるものです。

亡くしてしまった寂しさを、一生心の中にしまい、時にその引き出しを開けてみては涙する事、しばし。この辛さは経験したものにしか解らない心境かもしれません。また、逆さ別れの辛さは、一掬の涙を流し、心身共に苦痛で耐え難いものであり、親の生きる総べを失う最大の親不孝であるのです。戦争で亡くなる「命」。不治の病で亡くす「命」。事故で亡くす「命」。突然死で亡くす「命」。親の虐待で亡くすかわいそうな幼い「命」。殺人により、心残りで逝く「命」。自殺という親にもらった大切な「命」を自ら絶つ「命」。

かく言う私もこの短い人生の中で、いくつかの肉親との別れをしています。

実父の死。祖母の死。義父の死。そして我子の死。

中でも、毎晩添い寝をして、いつも側にいるはずの三男が、ある日突然いなくなった時は、この上も無い虚しさと、脱落感で半狂乱状態でした。

精神的心境を正常に取り戻すすべもなく、自分の存在をも、抹殺しようとさえ考えました。突然やってきた無常の別れ。何を見ても感じない、なにをしても真っ白状態で、「あの子はどこにいるのか?どうしているのか?」それが知りたくて、むさぼりつくように佛の本を読みました。そして心を許すお寺の友人を幾度か訪ね、仏様の教えを聴き、現実を見る=あきらめ=明らかに見る。ということを知り、また時間という薬を持ち、やっと三男の「死」を見つめ直し、涙を流さずに語れるようになったのが、つい最近なのです。

でも今でも三男の同級生を見かけると思わず涙してしまいます。昨年は実父の33回忌と三男の13回忌を終えました。三男が身をもって教えてくれた「命」の価値を知り、今までの人生観が変わりました。そしてその大切な「命」の礎が、今の私の考えでもあり、行動でもあるのです。

山本有三「路傍の石」にあるように、「たった一人しかない自分を、たった一度しかない人生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきた甲斐が無いじゃないか」とありますが、皆さんも自分の人生を悔いの無いように、精一杯生き抜いて欲しいと思います。そして、”絶対に自ら命を絶つべからず!”と、親として願うばかりです。

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