家族の絆について

私流子育て

私にはお腹を痛めたかわいい子供が四人いる。まず、長男は成人式を目の前に、背伸び一杯大人ぶっている青春時代の真直中。大學生活初めての独り暮らしの中で、やっと親の恩が分ったのであろう。最近は妙に優しい言葉が口から出るようになって驚いている。はるか遠くから電話で「次男とは会話しているか」とか「自分が甘やかされて育ったので、今現在困っている。弟には厳しく」などと申す。

次男は高専三年生。普通高校なら受験地獄で机に向かっている頃だが、高専という五年制の中ぶらりんの時期を飄々としてマイペースで過ごしている。この子も又「そうやって四男を甘やかすからいけない」と私に忠告することしばし。

彼らは少年期に”そうして欲しかった”親への”思い”から私に厳しくもあり、嬉しき小言を言ってくれる。そんな息子達に”成長したな”とそれらの言葉をかみ締めている。

三男は異国に留学して早十一年。どんな若者になっているのであろう?きっと、あのかわいい笑顔を振り撒いて周りの方々を楽しませ、幸せな気分にさせてくれていることだろう。私が彼からもらったように。

そして年の離れた四男。夫にとっては初孫みたいに溺愛し、又家族中の愛情を独り占めにしている言わずと知れた甘えん坊の七歳。

四人生んでも全て男の子。でも皆心の優しいそれぞれかわいい私の宝物である。

さて、私の子育てと改まって考えてみたがこれといって誇れることは何もない。反対に子供が育っていく過程で、私のほうが学び・反省・そして感動をも受け、親としての自覚を持たせてもらっている。

では、と私の親の子育てを回想してみると、又、これといって何にもない。しかし自然の中で遊ぶことで教わった事・物が多い。
たとえば、学校帰りのあぜ道で蓮華草・土筆・彼岸花を両手一杯摘んで帰り、ご近所に配って回った。料理をご近所に配る祖母の後姿を見ていたのであろう。休みの日には母は仕事なので、祖母とセリ摘みに行き、夕焼け空を背に帰宅し、混ぜご飯をお腹一杯ほお張って、自然の価値をもを満喫していた。

普段の遊びといえば、近所のわんぱく小僧達と缶けりをしたり、兄の跡を取り残されないように一生懸命走り、遊びについてまわった。魚とりもコツがあると、魚を追う棒の手の持ち方から教わった。遊びすぎて人の顔もわからなくなるほどの夕暮れ時は近所のおばちゃん達に「はよう帰らんかい」としかられ、お腹を空かせて帰宅していた。地域の大人の温かい目にも見守られて育った。そんな自然の良さと人情の風景が、今でも脳裏に焼きついている。これらの素晴らしい環境に育った事を私は自慢に思う。

私は高校受験の一番つらい時期に父を亡くし育ったが、母子家庭環境とは兄弟仲を深め、親への感謝を知る最大の場かもしれない。それには母の「厳格な愛」が必要である。

最近のニュースは信じられない耳を覆いたくなるような心荒んだ事件が多すぎる。現代の子供達が実親の虐待に遭ったり、子供同士のいじめに遭ったり、そのいじめをしてしまう背後にはこのような自然の中で遊んでいない親と子供がいると思う。又、そんな子供達は自然の遊びをきっと田舎臭いとかつまらないというかもしれない。

私は子育て九年目にしてあるきっかけで福祉ボランティアを始め、ここ数年は親子で環境ボランティアで活動し、仲間達と小学校の出前授業で環境学習会をしている。その活動の中で我子は勿論、地域の子供達と触れ合いながら川に入るのだが、最初は生活排水の入り込むコンクリート張りの川を「汚い」と目も向けなかった子供達。

理由は親。その汚い川に入ることを拒んだのは親達である。「汚い川」のイメージを植え付けたのは生活排水を出している人達だった。

がしかしこの半年、子供達と共に川掃除や水質検査をするようになってからは、「裸足はあぶないよ」と注意するほど川に入ることを喜んでいる。川に対する心が変化してきている。なぜこんなに変わったのか?

それは、「自然の循環」を知り、「水の価値」を理解できた子供達はその生活排水で汚されている川がいとおしくなり、綺麗にしたいという優しい心が生まれてきているから。確実に。

勉強にしろ環境問題にしろ、子供達に学の場で大人の私達がいかに工夫をして教えるか。

自然の中でもその遊び方を教えるのであって、自然の風や感覚を体で学んで欲しい。そうした経験が「命」の価値をも理解でき、思いやりの心が生まれ育つのではなかろうか。

私の子育て経験二十年。親になって常に思う事は「今を一生懸命に生きよう」「全ての事に感謝をしよう」と心に持ち、私はこの二つの事を口で教えるのではなく、後姿で学んで欲しいと思いながら実行している。

だから私にとって、親になるのは簡単だが、親である事は本当に難しい。母として、親として、沢山の言葉は無くても「こんなに心配しているよ」という気持ちを行動で示す努力を惜しまず、我子の真の見方の良き理解者でありたい。それが私流子育てである。

最後に、私の愛する子供達の一つの自慢。それは毎月の墓参りでしっかり手を合わせ数分間、目を閉じ祈ること。十一年前に自然と体で学んだ私の子供達は、その後生まれた四男にもその兄達の後姿で学んで手を合わせている。

自然界の掟である「無常」の念を深く心に納め、「命」の価値を身を持って私達に教えてくれた三男に感謝している。

コメントを残す

*